Vol.0022 被災地ボランティア~2年半経ち  [2014/03/11更新]

 

昨年9月に、南三陸町に行ってきました。

目的は、ボランティアです。

私が、看護師を志したきっかけは、
内紛などで難民が多くいる地域や発展途上国などで
ボランティアをしたいという思いからでした。
ボランティアの中で、一番人のそばにいて役に立つ仕事は?と
幼いながらに考えた時、思いついたのが看護師でした。
小学校高学年でぼんやりと方向性は決めていたものの
田舎街で今のようなITなんて言葉すらなかった時代でしたので、
小学生でできるボランティアを知る術もなく、
特に何をするわけでもなく過ごしていました。

そんな時、起こったのが神戸大震災でした。
マツコ小6の冬でした。

ただただ、テレビが映し出す見たこともない映像が
ショックだったのを覚えています。
とはいえ、自分ができたことといえば、
お小遣いからのすこしの募金くらいでした。

そこから半年が経ち、
ある新聞記事を見つけました。

“仮設住宅に住む独居老人との文通”

神戸の震災の時、問題が浮き彫りになったのが、
仮設住宅を急ピッチで建設し、ランダムに入居者を決めたことによる
独居老人の孤立化です。
それに対する対策としてあるボランティア団体が行っていたのが
“仮設住宅に住む独居老人との文通”でした。
私は、一人のおばあちゃんと文通を始めました。
私が往復はがきで、おばあちゃんに手紙を書き、
おばあちゃんが返信用はがきで返事をくれるというシステムです。
私が文通をしていたおばあちゃんは、70代で独居。
一番被害がひどかった長田区在住で、
崩れた自宅の下敷きになり、半日後に近所の方に助けられたそうです。
幸い怪我はなかったものの自宅は全壊し、仮設住宅へ入居されていました。

震災から半年後の夏から始め、約1年やりとりを続けた
中2の夏に、おばあちゃんに会いに行きました。
神戸大震災から1年半後のことです。

その頃には、おばあちゃんは家族の支援もあり、
小さいながらも立派な一軒家を建て、自宅で住まわれていました。
小柄だけど、張りのある少し高めの声がとってもチャーミングな方で、
朝から、沢山具が入ったちらし寿司を始めとする料理を用意してくれ、
昼食をおばあちゃんの家で頂きながらお話をしました。

震災後、1年半が経った神戸の街は、
所々、空き地は目立っていましたが、
建設中や新しい建物が目立ち、工事の車も多く走っており、
「被災」から「復興」を果たそうとする力強さを感じました。
お見舞いに行ったつもりが、おばあちゃんからも神戸の街からも
逆にパワーを頂いてしまいました。

そう、そんな経験もあり、私はついどこかで
東日本大震災と神戸を重ねて考えていました。

東日本大震災では、
神戸での経験を踏まえた日本の耐震対策と古来の建築技術もあり、
地震の揺れそのものだけでみれば、犠牲者は約90人と言われていますが、
みなさんもご存じのように、
今回の地震は、巨大な津波が複数県を襲い、
大きな被害をもたらしました。
原発の問題もあります。

神戸とは全く違うことはわかっているつもりでした。
しかし、あれから2年半。
私が訪れた9月にはがれき処理が82%終了と言われており、
少しは復興しているのではないかと思っていました。
安易に。

そして、訪れた南三陸町。

瓦礫は、綺麗に片づけられていましたが、
そこを津波が走ったと見てすぐわかる自然の境界線が
海岸線はもちろん海が見えない場所でも見られました。

自然の境界線、
それは、自身の時間が止まってしまった薄茶色く白たけた木々達。
その足元に生える雑草の青さが残酷さを強調し、
彼らが止まってしまったあの日から、
すでに随分の時が経ってしまったのだと思い知らせるその様は、
今、思い出しても、心をからっぽにさせてしまう。
文章を打つ手を止めてしまう。

「復興」なんて、「力強さ」なんて…

大きい瓦礫はなくとも、
フェンスだったり、高い崖だったりに取り残された細々した残骸。

ハンドパワーで曲げられたスプーンのように
考えもつかない形に曲がりくねったガードレール。

目の前に見てもなお、
現実味を帯びない、テレビで何度も見た骨組みだけの合同庁舎。

また、
至る所にある、「過去の津波浸水区域」の標識に
何とも言えない違和感を覚えました。

何故なら、津波の被害を受けた土地の大部分は
未だ話が進まず、手が付けられないことが現状で、
流されたまま時が過ぎ、雑草が草原のように生い茂る土地が
海岸線とゆう海岸線に広がっているのはもちろんのこと、
川を伝い押し寄せてきた津波にさらわれた内地にも時折ぽっかりとあり、
その時はまだ、何も知らない私の眼には
放置されたまま風化している土地の中で、
やけに綺麗でそこだけが異様に徹底して整備されている標識が
とても浮き目立って見えたのです。

今回は、ここまで。
1つの回では、どうにもまとまりませんでした。

2014年3月11日。
今日であの日から3年を迎えます。
当時のマツコは、あの地震の揺れを全く感じることのなかった土地で
病棟看護師をしていました。
その後関東に来て、看護師として働いていた時、
少し強い揺れの地震(たぶん震度4くらいでした)がきたのですが
マツコひとりだけナースステーションから動くことができませんでした。
あの日を経験した他のスタッフは、てきぱきと患者さんの安全確認や
機器や建物の確認をし、院内でもすぐに防災本部が立ち上がり
連絡や報告が速やかになされていました。

3.11の教訓。

結局、経験した人にしか教訓になっていません。
もし、前途したようなマツコが関東に来て経験した揺れが
(関東の人曰く、大したことのない揺れだそうですが)
マツコがいた土地で起こったら
きっとてんやわんやです。

BLS、ACLS、DMAT…
救急看護、災害看護の勉強会は各地で様々開かれていて
多くの看護師さんが熱心に参加していますが
年に1度行われる病院内の防災訓練は、どこか人任せ。
師長さんの白羽の矢が立ったスタッフだけが参加することがほとんどです。
まずは、自分が今いるところで地震が起こったら、火事になったら
水害が起こったら、自分はどう動くべきか。
今日という日に、3.11を経験していない人も
少し立ち止まって考えてみてはどうでしょうか。
病棟単位のカンファレンスなどで災害時にどう動くか等の
シュミレーションをしても良いと思います。
もちろんマツコも、地震が起きた時、
ひとりだけナースステーションから動けない、
なんてことがもう二度とないように
危機意識を持って自分の行動プランを考えておきたいと思います。

みなさまにとって
今日がただ通り過ぎる震災の日ではなく
何かひとつでも
こころにストンと落ち残り
いつの日かの行動に繋がる日になりますように。

さて、次回は南三陸町やボランティアについて
マツコが見て、感じて、体験したことを
書いておりますので、続きもどうぞ読んでくださいね。

マツコ