Vol.0023 被災地ボランティア~2年半経ち その2  [2014/03/19更新]

さて、前回からの続きです。
今回は、マツコが参加させて頂いたボランティアのお話です。
マツコが参加させて頂いたボランティアチームは、
震災直後から冬場を除き、毎月南三陸町に訪れていて
マツコが参加した回は21回目のボランティア活動でした。
特にその回は、ボランティアセンターを通さずに、
町役場の方からの直接のご依頼を受けてのボンティアで、
それは、時が経つのと共に年々ボランティアが減っていく中で、
絶えずに続けてきたことで得た信頼の証に思えました。

マツコが行った作業は、以下の通りです。
1.復興記念に植えられた桜の木の周辺のゴミ拾い&草取り
2.震災前から名物で、震災後もボランティアにより種が蒔かれ、
毎年夏に咲き誇っているひまわりが、夏も終盤になり枯れ果てている為、
その枯れたひまわりと雑草抜き

また、作業後に、歌津の仮設住宅の方々とお茶っこをしながら
貴重な震災当時のお話や、今までの経緯をお話してもらえました。

震災後初めて被災地に足を踏み入れ、目に入った景色に
静かにショックを受けていたマツコにとって、
ひたすらひまわりや雑草を引っこ抜き
身体を動かし、汗を流すことは、
余計なことを考えずにすみ、
今まで何もして来ずに
どこかで神戸の時を重ねて考えていた楽観的な自分を
責める余裕もなく時間を過ぎることができました。

なぜ、マツコが「今まで何もして来ずに」と思ったかというと
今回参加したボランティアの主宰二人は、マツコと同じ年で
普段は普通の会社員なのです。
震災以前に、一度ボランティアグループを結成し、
活動をしたものの、それまでのボランティア経験が
ほとんどないことで上手く活動が進められず、
活動を一時中断せざるを得なくなった経緯があったそうです。
しかし、震災が起き、彼等は再び活動を開始しました。
震災から1か月も経たない時でした。
きっと、彼らが一番はじめに足を踏み入れた時に受けたショックは、
マツコが受けたショックよりも遥かに大きいもので
ボランティアの内容ももっと心身共に辛いものだったはずです。
しかし、彼らは被災地に向かうことを一回で終わらせませんでした。
また、その自分たちのあゆみをひけらかすことも決してしません。

彼らのボランティアは、リーズナブルでかつラフです。
熱意があるからこそ、震災後からほぼ毎月通い活動を
続けて来れたのだと思いますが、
決してそれを人に押し付けることなく、
活動を強制することはありません。
金曜の深夜に集合し、車で現地に向かい出発し、
朝到着し、車で仮眠後、ボランティア開始。
当初は現地でキャンプをしていたそうですが、
現在は、現地の臨時職員(他府県の役所から派遣された職員)の方の
お家にヤドカリし、みんなで寝袋で寝ています。
そして、翌日の午前中もボランティアを行い、
午後に現地を出発し、夜に帰宅。
冬にスノボに行くようなスケジュールです。

ボランティア参加者は、年齢も職業も様々です。
人伝いに来て、主宰とも初めて会うなんて人もいます。
しかし、よくよく話を聞くとなんだかそれなりにみんな
繋がりがあり、これからも繋がっていけそうな要素がたっぷりなのです。
作業途中は、みんな黙々と作業を行うので、
ほとんどお話はできませんが、
南三陸までの行き帰りの車中で
運転手が眠くならないように、話の話題が尽きないように
休憩ごとにクジでメンバーをチェンジするという工夫がなされていたお陰で、
色んな方とじっくり楽しくお話をすることができました。

このボランティアチームとの出会いを通して感じたことは、
被災地でのボランティアは決して特別なことではないということ。
「してあげる」でも「してもらう」でもない。
孫がおじいちゃんの家に行って家の手伝いをするような
そんな感覚。
会いに行くのも当たり前だし、そこで手伝うのも当たり前。
一緒に汗を流して 笑って 美味しいもの食べて…。
ボランティアをする人が、特別でも偉いわけでもない。
誰もが志が高く、正義感や使命感が強い人なわけじゃない。
普段は、ごく普通に働いている一般の人。
漫画も読むしライブにも行くし、
オシャレも好きだし、酔いつぶれてしまうこともある。

被災地に行くのもそんなありふれた日常の中の一部。

意識して震災や被災地を「わすれない」のではなく
自分の日常の中の一部になっているのです。

それは、マツコが神戸のおばあちゃんと文通をしていた時とおなじ。
文通の第一歩は、確かにおばあちゃんが被災者だったからです。
だけど、文通を行き交わすごとに
ボランティアだとか、震災だとかいう言葉を忘れて
純粋に文通を楽しみ、自分の日常の一部になっていました。

さて、当初マツコが違和感を感じた徹底的に整備された標識と
海沿いに広がる整備されていない土地の件ですが、
現地の方の一人一人の抱える現状と思いがあり
復興予算の使い方、街づくりや居住区域の設定などが、
地域としての意見がまとまらないのは仕方ないのではないかと思います。
ただ、いつまた来るかわからない津波に対して
「ここまで来た」という標識は絶対必要であり、
きっとそれだけは、みんなが合意したことにより、
新しい標識の設置はしっかりとしてあったのでしょう。

車窓からの眺めだけの時は、
「復興なんて全然してない」「なんて物悲しい景色なんだ」
という印象を持っていたマツコも
南三陸の土地に降りて、実際に南三陸で暮らす方々と
少しだけですが同じ時間を過ごし、
地元の飲食店や民宿、
南三陸の様々な商店が軒を連ねる南三陸さんさん商店街などで
地元で働く方々とお話をしたり食べたり、買い物をしたりして
南三陸さんさん商店街のホームページにある素敵な言葉が
今の南三陸にはぴったりだなと思いました。

“福興”

南三陸町が再び幸せを取り戻せるように
福がたくさんおこりますように
南三陸町の方はもちろん、事業者や行政
NPO法人、ボランティアをはじめとする町に訪れる人々
その地に足を運べなくても
おなじ空の下からおなじ心で町を想っている人
みんなが手をつなぎ
福興をしようと歩み進んでいます。
海沿いに広がる草原の見た目だけではわからない
その土地に住む方々の強さや希望、
立ち上がろう歩き続けようとする姿は、
訪れる人間に力をくれる。
神戸とはまた全然違う。
もっともっとささやかで
もっともっとグッと粘り強い

南三陸から帰ってすぐ、この文章の大半はすでに書いていました。
しかし、私は何を綴ることが正しいのかがわかりませんでした。
復興を早急に?防波堤をより高く?沿岸部には住まない方が良い?
高地に移転を?もっとみんな支援をしよう?
たった一回、足を運んだところで
軽々しく何かを発することはできないと思いました。

だけど、南三陸で出会った人たちはみんな前を向いていたし
お魚もわかめも美味しかったし、やっぱり海は美しかったし
私が参加したボランティアチーム以外にも
ずっと交流を続けている企業や大学も沢山ありました。
何より心が浮きだったのが、
前回書いたマツコが震災時に住んでいた
「揺れを全然感じなかった」被災地からとても離れた街の高校が
修学旅行で南三陸を訪れていたことを伺えたことです。

修学旅行と言えば、海外や沖縄、北海道、東京、京都など
THE 観光地に行き「社会見学」をする学校が多いです。
マツコももちろんこの中の都市に行きましたが、
そんな主要な観光地は正直、大人になっても行けるんです。
それよりも、今後の日本を背負って立つ若者が
仲間と一緒に足を運ぶべき土地があると私は思います。

そう、色んな角度から色んな方法で
色んな人たちが震災について、東北について
考えて行動をしています。

出来ていない事、足りていない事もあると思いますが
それを批判して意見を述べるほど、私は何もしていません。
それよりも、とにかく正直に
自分が、二年半後の被災地に行き
見て、感じて、体験したことを話してみようと思いました。

「思わずうなずく看護のはなし」とうたっているのに
看護の話を全然しなくてすみません。
しかし実際には、何かしたい、何かしたかったと思っている
看護師さんは沢山いると思うのです。
ですが、勤務の都合や距離的な問題などで
東北に行くチャンスがなかなかない方がほとんど。
また、医療者だからこそボランティアと聞くとついつい
災害派遣などのレベルの高いものを想像してしまいます。
今回は、そんな先入観をちょっとでも
吹き飛ばしてもらいたかったのです
そうだな…
今年の夏休みは、観光地じゃなく東北に行こう!とかどうでしょう?
温泉もあるし、海の幸は海の街で生まれ育ったマツコもうなるほど
美味しいです!とくにわかめ!
美味しくて美味しくてわかめ鍋をしてしまいました☆
もうツルツルキラキラ美しくて絶品です!
院内旅行がある病院関係者様、
是非院内旅行コースに東北の旅を入れて下さい!
そうだ!みんなで旅に出よう!東北に!
…と。そんなかんじで、東北を想ってくれたら良いなあと思います。
得るものは東北とのキョリ以上に沢山あります。
自分の次の一歩の原動力にきっとなるはずです。
とはいえ、マツコもなかなか日程が合わず、
その後訪れることができていません。
それでもおなじ空の下
福興を願うひとりとして
おなじこころを持ち続けていきたいです。

マツコ