看護師としてのキャリアを大切にしながらも、その枠にとどまらず、自分らしい道を切り開いている人たちに光を当てる企画『看護師+αで輝く人たち』。
第2回目の連載となる今回は、地元・北海道から鹿児島の離島、東京での応援ナースを経験した田中美希さん(仮名)にインタビュー。
北海道を飛び出し、縁もゆかりもなかった鹿児島の離島。
そして、東京で応援ナースをすることになったキッカケやリアルな体験談を、これまでの歩みと今後の展望を伺いました。
看護師としてのキャリアを大切にしながらも、その枠にとどまらず、自分らしい道を切り開いている人たちに光を当てる企画『看護師+αで輝く人たち』。
第2回目の連載となる今回は、地元・北海道から鹿児島の離島、東京での応援ナースを経験した田中美希さん(仮名)にインタビュー。
北海道を飛び出し、縁もゆかりもなかった鹿児島の離島。
そして、東京で応援ナースをすることになったキッカケやリアルな経験談を、これまでの歩みと今後の展望を伺いました。
看護師としての経歴
現在、看護師歴は15年目です。
最初は、地元・北海道の総合病院で婦人科と乳腺外科の病棟で、4年間勤務しました。
その後、鹿児島の離島で半年間、東京の療養型病院で応援ナースとして働きました。
東京の病院では、応援ナースとして半年の契約終了後に常勤となり、約5年間勤務。
その後、中規模病院で3年間働き、現在は非常勤としてインターナショナルなクリニックに勤めています。
応援ナースに挑戦したきっかけ
応援ナースを知ったのは、インターネットだったと思います。
当時、北海道を出たことがなく、看護技術も限られた範囲しか経験できていませんでした。
婦人科と乳腺外科の病棟は若い患者さんが多く、手術後の患者さんの看護と抗がん剤治療の看護がメインでした。
気管切開や胃ろうの管理、痰の吸引、認知症看護などの機会はほとんどありませんでした。
だから、「応援ナースに行けば、幅広く色々な経験が積めるかも?」と思ったことがキッカケです。
女性病棟だったので、男性の患者さんも看護したことなくて、高齢の患者さんの看護もわからなかったんです。
半年間なら挑戦できるかもしれない!と思ったことと、北海道の病院を辞めるときの解放感もあって、応援ナースに飛び込む決意をしました。
北海道の病院を辞める時は、なかなか退職させてもらえず苦労したので‥…。
辞めた直後は、4カ月間イギリスの語学学校に通い、その後、鹿児島の離島で勤務をスタートしました。
離島勤務での経験
最初は、自分のスキル不足、看護技術の経験が偏っているのが不安でした。
当時(約10年前)は今と違って、ネットで調べても、Youtubeでの看護技術の動画なんかもありませんでした。
バルーン挿入も痰の吸引もほとんど経験がなかったので、看護技術の本を読みながら勉強していました。
思い起こすと、その当時、本当によく勉強しましたね。
「習うより慣れろ」の精神

私が気管切開をしている患者さんの痰の吸引をするときに、手際が悪くモタモタしていたので、患者さんから「大丈夫ですか?」と、紙に書かれてしまうほど不慣れな場面もありました。
離島の病院はとにかく「何でもあり」で、ヘリコプターでの搬送、交通事故や観光客の外傷、出産・新生児から看取りまで、幅広く対応する必要がありました。
それでもなんとか必死に学び、「習うより慣れろ」の精神で、少しずつできることを増やしていきました。
離島は医師も少なかったので、看護師がなんでもやらなくてはいけなくて。
医師に中心静脈カテーテルを挿入してもらうなんてことも、ほとんどなかったので、高齢者の静脈確保を1日中やっているなんて日もありました。
離島の看護師さんたちは、4~5年目でも本当に何でもこなしていて驚きました。
カルチャーショックを受けた「人間関係の濃さ」

また、離島ならではの地域性にもカルチャーショックを受けましたね。
患者さん同士や家族、医療者が近い距離にいて。
4人部屋に入院しているおばあちゃん同士が全員知り合いだったり、入院してきた患者さんが、病院スタッフの家族だったりということも珍しくはなかったです。
道で患者さんに出会うこともしばしば。
東京では考えられないような人間関係の濃さを体験しました。
東京での応援ナース
東京の療養型病院では、鹿児島で培った技術が役立ちました。
痰の吸引や経管栄養、バルーン管理などには慣れていたので、比較的スムーズに馴染むことができました。
社宅も用意され、通勤も便利で、人間関係も良好でした。
応援ナースとしての契約終了後は、そのまま常勤となり、約5年間勤務しました。
応援ナース経験で得たもの

応援ナースの経験は、看護技術の向上だけでなく、自分の適性を知るきっかけにもなりました。
北海道では若い患者さんが中心でしたが、離島で高齢者看護を経験し、「自分はお年寄りの看護が好きで、向いているのかもしれない」と気づきました。
患者さんと接しているところを見ていた周囲のスタッフからも、「お年寄りとの関わりが得意なんだね」と言われたり。
その後、東京で療養型病院を選んだのも、「高齢者看護をやりたい」という気づきがあったからです。
また、離島勤務は「野戦病院」のような環境でした。
でもその経験のおかげで、どこに行っても慌てずに対応できるようになり、次の職場でも困らなかったことが大きな収穫でした。
さらに、応援ナースを通して多くの人と出会えたことも大切な財産です。
世界一周の経験を持つ人、海外を一人旅してきた人、山登りが好きで移住した人……。
行動力があり、価値観の広い人々との出会いは、自分の視野を大きく広げてくれました。
地元にずっといたら出会えないような、パワフルで行動力がある方とたくさん出会えました。
色々と、揉まれたからこそ、次の道筋も見えた気がしています。
常勤以外の働き方を選んだ理由
正職員として働くと辞めにくく、委員会やプリセプターなど責任も増えます。
半年で辞めるなど、無責任なことはしづらいですし。
北海道の病院では人間関係にも苦労し、自由に動けない窮屈さも感じていました。
非常勤や派遣であれば「お試し」の感覚で働くことができ、合わなければ次に進める柔軟さがあります。
やりたいことが見つかったときに、動きやすい点も魅力ですね。
今後のキャリアについて

3年前に医療通訳の資格を取得しました。
半年間学校に通って勉強し、資格を得たんです。
今もクリニックで英語を使う機会はありますが、将来的には救急など大きな現場で通訳として関わりたいと思っています。
看護師としての経験と、語学を組み合わせ、新しい形で医療に貢献できるよう努力を続けています。
メッセージ「挑戦を迷っている方へ」
私自身、離島で応援ナースをやると決めたときは「絶対に自分には無理」と思っていました。
でも、実際に飛び込んでみると、想像以上に得られるものがあり、かけがえのない出会いもありました。
考えすぎず、思い切って一歩を踏み出せば、何とかなるものです。
迷っている方は、ぜひチャレンジしてみてください。
編集後記|挑戦がキャリアを広げるきっかけに
田中さんの歩みは、「不安を抱えても挑戦することでキャリアが広がる」ことを示してくれています。
応援ナースとして各地で積んだ経験は、看護技術だけでなく、人とのつながりや自身の適性を知る大きなきっかけとなりました。
今後は、医療通訳という新たな挑戦にも進む田中さん。
看護師+αの可能性を広げるその姿は、多くの看護師に勇気を与えてくれますね。
あらい わかば(ライター・オンラインサロン主宰)
看護師として10年以上実績を重ね、オフィスワークを含め多くの職場を経験。
現在は、クリニックの看護師として勤務しながら、ライター・オンラインサロンの主宰など、精力的に活動の幅を広げている。

スーパーナース編集部
看護師の働き方を支援して30年の株式会社スーパーナース。
派遣や転職をはじめとした就業経験豊富な看護師と編集スタッフが「看護師のはたらく」に関する情報を日々お届けします。






